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時をかけるメレリオ
メレリオ: 15世代にわたる家族の歴史
時をかけるメレリオ
メレリオ: 15世代にわたる家族の歴史
1613年以来、メレリオ家はジュエリーの隠れた名店として知られてきました。ヴァンドーム界隈に最初に店を構え、世界最古のジュエリーメゾンとして、4世紀にわたるフランスの歴史を歩んできました。
15 世代にわたり、メレリオ家は仕事や創造性、ノウハウ、誠実さや慎重さといった価値観を代々受け継いできました。これらの価値観は、唯一無二の伝統です。
メレリオ家は、北イタリアのヴィゲッツォ渓谷にある小さな山村出身が起源にもつ、フレンチジュエラーの名家です。
1515年、多くのイタリア人芸術家たちと同様、メレリオ家もヴィゲッツォ渓谷に住む他のファミリーと共にフランスへの移住を決意し、パリに定住し、ロンバール通りに住居を構えました。それから1世紀経った頃、メレリオ家の生活を一変する出来事が起こりました。1613年、メレリオ家がマリー・ド・メディシス王妃の幼い息子、ルイ13世に対する陰謀を阻止した褒美として、メレリオ家に特権を与えました。この勅令により、メレリオは一般的に適用される行政上の制約に従う必要なしに、フランスでの開業が認められました。ルイ16世までのすべてのフランス国王は、この特権を更新させました。
こうして、メレリオ家の他に類のない急成長を遂げました。
ジャン=マリー・メレリオの息子である、ジャン=バティスト・メレリオは、幼少期からヴェルサイユ宮殿の門の近くで宝石を売っていました。ある日、 マリー・アントワネットは彼の話を聞き、惹かれました。それ以来、門は開かれ、彼はヴェルサイユ宮殿に出入りできるようになり、 宮殿の御用達となりました。ルイ16世の時代に、メゾン・メレリオはフランスのジュエリー業界で重要な地位を占めるようになりました。 特に、マリー・アントワネットが親しい友人に贈る高級品へと特化していきました。このことが認知され始め、ジャン=パティスト・メレリオが、ヴィヴィエンヌ通りの20番地に、 「Mellerio - Meller à la couronne de fer(メレリオ-鉄冠のメラー)」という看板を掲げ、ブティックを開きました。この店では、メレリオは新しい商品を披露する度に、 テュイルリー宮殿への訪問の許可を得たジョゼフィーヌ皇后の顧客から恩恵を受けました。その後、皇后はメレリオをナポレオン・ボナパルトの一族を含む、自身の全ての側近に紹介しました。
メレリオ : 帝国宮廷のオフィシャル・サプライヤー
パリのラ・ペ通りに、次第にラグジュアリー品専門店が数多くオープンし、人々を最も魅力する通りの一つとなっていく中、メレリオはいち早くその地にお店オープンさせたというアドバンスがありました。
1815 年、フランソワ・メレリオは、当時、まだ宝石商がなかった理想的な場所であるラ・ペ通りに店を構えました。1830年、マリー・アメリー・テレーズ・ド・ブルボン=シシレとルイ・フィリップ・アルベール・ドルレアンがフランス王位に即くと、メレリオは、「フランスの女王陛下」の御用達となりました。
マリー・アメリーは、この称号をメレリオ家のエントランスに掲げる許可を出しました。在位中、マリー・アメリーは、質素にこだわり、クラウン・ジュエリー・コレクションを身につけず、ほとんどを個人で保有するメゾン・メレリオのジュエリーを身につけました。
フランス第二帝政期に、首都で舞踏会が催され、ヨーロッパ中の宮廷から、メレリオは賞賛を浴びました。このような社交場は、パリの宝石商から入手した最新のジュエリーを披露する機会でもありました。この時期、皇帝ナポレオン3世と、特にメゾンと友好的な関係を築いていた皇后ウジェニーは、メレリオにとって最も大切な顧客でした。
メレリオ : 帝国宮廷のオフィシャル・サプライヤー
パリのラ・ペ通りに、次第にラグジュアリー品専門店が数多くオープンし、人々を最も魅力する通りの一つとなっていく中、メレリオはいち早くその地にお店オープンさせたというアドバンスがありました。
1815 年、フランソワ・メレリオは、当時、まだ宝石商がなかった理想的な場所であるラ・ペ通りに店を構えました。1830年、マリー・アメリー・テレーズ・ド・ブルボン=シシレとルイ・フィリップ・アルベール・ドルレアンがフランス王位に即くと、メレリオは、「フランスの女王陛下」の御用達となりました。
マリー・アメリーは、この称号をメレリオ家のエントランスに掲げる許可を出しました。在位中、マリー・アメリーは、質素にこだわり、クラウン・ジュエリー・コレクションを身につけず、ほとんどを個人で保有するメゾン・メレリオのジュエリーを身につけました。
フランス第二帝政期に、首都で舞踏会が催され、ヨーロッパ中の宮廷から、メレリオは賞賛を浴びました。このような社交場は、パリの宝石商から入手した最新のジュエリーを披露する機会でもありました。この時期、皇帝ナポレオン3世と、特にメゾンと友好的な関係を築いていた皇后ウジェニーは、メレリオにとって最も大切な顧客でした。
1848年のフランス革命は、深刻な経済危機を引き起こしました。メレリオ兄弟は新たな市場を求め、スペインのマドリードに進出し、1850年に「Mellerio-Hermanos(メレリオ・エルマノス)」という看板を掲げ、海外進出を試みました。その店は瞬く間に、スペインの女王であったイサベル2世やスペインの上流貴族から数多くの注文を受けるようなりました。
19世紀末、オランダ宮廷がメレリオの注文帳を埋めました。特にこの印象的なルビーのセットは、現在、オランダのマキシマ王妃がよくに着用されています。このセットは、36個の特別なルビーで構成され、1979年のハワイのエマ王妃の戴冠式のために注文されました。
外国人の顧客層が大幅に拡大し、ヨーロッパのほとんどの貴族を含んでいました。パリのラ・ペ通りにあるお店には、世界中から著名人が来店しました。フランスの公爵であるオルレアン家、ロスチャイルド家、スペインやロシア、イタリア、ベルギーの宮廷、外交官、知識人、芸術家など...。
東洋やアフリカなど、遠くの離れた大陸からの著名人の来客は、センセーショナルなものでした。ヨーロッパ、特に、パリやロンドン、ウィーンに出張したカプールタラーのマハラジャに敬意を表し、豪華なレセプションが催された。
1905年10月にパリを訪れた際、彼はラ・ペ通りの9番地の店に入り、メレリオの魅力的なジュエリーを2つ購入しました。そのうちにひとつは、メレリオを象徴するジュエリーである孔雀のエグレットで、カラーゴールドにダイヤモンドがあしらわれています。孔雀の体にはエナメル加工が施され、2,984個のローズカットダイヤモンドの輝きと煌めく色彩が融合し、驚くべき効果を生み出しています。
第二帝政期には、3回の万博博覧会(1855年、1862年、1867年)が開催され、当時流行していた様々な芸術や技術が紹介されました。メゾン・メレリオは、これらの万博博覧展が表す国際的な論点を迅速に理解し、多くの賞を受賞することで頭角を現しました。展示会は、メゾン・メレリオの創造性と大胆さを示す絶好の機会となり、来場者やジャーナリストからも高く評価されました。
1854年、メレリオは果物や花の小枝の揺れる動きを再現できる柔軟な茎の特許を申請しました。 1855年、メレリオはパリ万国博覧会で、自然主義的な作品に対して、「メダイユ・ドヌール」(médaille d'honneur) を受賞したことをきっかけとなり、顧客を倍増させました。
1862年、ロンドンで開催された万国博覧会がメゾンの高い評価を得て、メゾンのスタイルと専門性を確固たるものにしました。この博覧会で、メレリオは再び注目され、印象的で写実的なリラ・ブローチと考古学にインスピレーションを得た作品の発表により、「卓越したデザインと完成度」に贈られるプライズ・メダルを授与されました。
1867年にパリで開催された万国博覧会では、メレリオの業績が評価され、金賞が授与されました。特に、宝石が施された初の大きな孔雀の羽のブローチとロカイユのティアラを発表し、スペインのイサベル2世が購入しました。
1世紀後の1951年に、装飾用のオーナメントネイルの考案を保護するため、新たな革新的かつ大胆な特許を申請しました。 パラジウムとダイヤモンドで作られたこのフェイクネイルは、指に触れる爪の輪郭に沿ったフレームが特徴で、フレームの外側にはダイヤモンドが装飾され、穿孔されています。
20世紀初頭、社会はアール・ヌーヴォーのジュエリーに対する関心を失い始めました。ファインストーン(天然石)は次第に使われなくなり、貴石が好まれるようになりました。リバーズ(リヴィエール)は、その10年の初めに復活しました。この時代の最も象徴的な作品は、真珠のネックレスです。ストレート・カットが流行し、そのシルエットを引き立てるのにパール・ソトワールほど優れたジュエリーはありませんでした。
メレリオはファッションの変化に敏感で、この新しいトレンドを利用し、パリのメゾンのパールの基準となりました。
それ以降、メゾンとファッションとの結びつきがより緊密になっていきました。1950年代、メレリオはクリスチャン・ディオール、ピエール・バルマン、バレンシアガといった一流クチュリエとランウェイで数々のコラボレーションを行いました。
メレリオは、金細工における本来の専門技術を忠実に守り、最高級のスポーツ賞の数々を生み出してきました。その中には、1955年のショーソンドールや1956年からは、今やサッカー界で最も伝説的なトロフィーのひとつとして知られるバロンドール、そして1981年からの全仏オープンのローラン・ギャロスのトロフィーなどがあります。
1980年代、ヴァンドーム広場のジュエリー・メゾンのほとんどが大企業の傘下に入っていく中、メレリオは独立した家族経営のメゾンであり続けることを決意しました。この選択は、この選択は、お客様の人生のあらゆる特別な機会にパーソナライズされた顧客体験を提供し続けたいという願望によるものでした。
14世代にわたり、メゾン・メレリオは、現代的な作品の中に、その起源を思い起こさせる絶妙な幾何学的手法を進んで取り入れてきました。このウィンクは、誇張することなく、シグネチャーに等しいもので、楕円に刻まれた卵形によって表現されています。この卵形のモチーフは、ラ・ペ通りのジュエラーの最も有名な作品に神秘性を与え、特に1868年にウジェニー皇后のためにデザインされた伝説的な孔雀の羽のブローチに多く使用されました。
この特徴的な卵形のカットには、ボー・サンシーの神話に登場する石の形と記憶が反映されています。マリー・ド・メディシスが愛したこのダイヤモンドは、インドが原産で、純度が非常に高く、メゾンの時計製造に欠かせない宝石でした。このノウハウは1613年から代々受け継がれ、現在ではメゾンの時計製造、ジュエリー、ファインジュエリーのシグネチャーとなっています。
創業400周年を祝して、メレリオはマリー・ド・メディシス女王へのオマージュとして、特別なハイジュエリーを制作しました。メレリオがこの格別なルビーを採取するのに10年、この高度な技術を駆使した作品を創り上げるに4,500時間を費やしました。この襟は、軽量で柔軟性があり、あらゆるタイプの首にフィットします。襟全体にあしらわれた百合の花は、王家を象徴しています。
色彩はメゾンの特徴のひとつであり、メレリオのイタリアに起源まで遡ります。この特徴は、作品のクロマティシズムにも見られます。コントラストとカメオを駆使したメレリオのジュエリーは、地中海の喜びを呼び起こす、遊び心に満ちた詩的なパレットを生み出している。イエローゴールドの輝き、ピンクゴールドの柔らかさ、そしてグリーンゴールドの力強さが、色彩のハーモニーを一層際立たせます。歴史的遺産と現代の活力が融合したカラフルなジュエリーは、喜びの源となり、さらに夢への誘いに。
メレリオ家の14代目、ロール=イザベル・メレリオは、イタリアのクラヴェッジャ出身で、インテリアデザイナーであり、美術史家で宝石学の学位を持っています。現在では、フランス最古にして最後の家族経営のジュエリー・メゾンの社長兼アーティスティック・ディレクターを務めています。
彼女の野望は、メゾンの真正で現代的なイメージを育み、彼女自身の特徴であるボリューム、色彩、素材のコントラストとイタリアにインスパイアされた、エフォートレスでエレガントかつスタイリッシュなクリエイションによって、知る人ぞ知る唯一無二のラグジュアリー・メゾンへと確実に覚醒させることです。